「福岡県指定無形民俗文化財 小倉祇園太鼓」について
小倉祇園太鼓保存振興会
我々小倉っ子が心より愛してやまない小倉祇園太鼓。
本来、城下町にある二十有余の町内により受け継がれたこの祭りも、旧小倉城下にとどまらず小倉北区全域から小倉南区へ、そして遠くは海外での団体活動も確認されている。
小倉城を興した細川忠興公が元和3年(1617)京都の祇園祭を模して始めたのが祭りの起源、万治3年(1660)藩主のお供をした囃方清五郎が山王神事の囃し方を聞き覚え、子供に叩かせたのが太鼓の起源である。京都祇園も時々の戦乱で祭礼品を焼失、幾度の変遷を経て現在に至る。幕末までの小倉祇園ご神幸も、山車・踊車・傘鉾などが追従する能形式が主であった。小倉の役(1866)で祭礼道具を焼失すると太鼓の色合いが強まり、大正時代には現在の太鼓祇園と呼ばれるようになる。昭和33年、継承されたその民俗性即ち、太鼓の叩き方・お囃子・山車・衣装・行事の祭りに関わる全てを、福岡県無形民俗文化財として指定されたのである。
お囃子を唄う子供達が曳く山車に、歩きながら両面(ドロカン)を叩く太鼓を前後に積み、摺り鉦(ジャンガラ)により、何人で叩いても一つの音になる。その音であり、衣装であり、行事である。早い太鼓が上手いのではなく、ゆっくりと品をつけた撥の抑揚こそ撥捌きと呼べるものである。その撥捌きを「乱れ打ち」や「勇み駒」と形容したのが、岩下俊作氏による「富島松五郎傳」であり、映画やレコードで有名になった「無法松の一生」である。 ※松竹は太鼓の違いを謝罪
昭和33年に組織された小倉祇園太鼓保存振興会は、競演大会の開催運営が主事業だった。市外郭団体の小倉城が事務局を務め、町内会も加わるものだった。町内会減衰の危機感から新規の構成を否定せず、企業や色々な団体も加わった。観光振興の名目で要請される派遣では、即応団体を可とし分派の機会を増進した。
伝統文化と大衆芸能(無法松ブランド)混同を看過し、伝承芸より新興もどきの創作を優先し、本祭りとわっしょい百万夏まつりの違いや、音・衣装・時間・場所の縛りが口述されない団体を散見し始めたのは平成に入ってからである。
伝統継承の条件や素養などの入会資格を設けず、全体を統括し次代を展望する意識が希薄だった十数年と反省しきりである。当振興会は、風紀審議会(外部有識者)の助言から「2009三ヵ年改善計画」を実践中である。
当会員の誇りは、伝統ある祭りの定時開催であり、世間に親しまれお褒めいただくことである。
当会員の義務と責任は、継承する伝統芸の理解と実践、次代への対策を怠らないことである。
会員は、そのブランド利用に走らず「歴史や謂れと云う祭り観を共有する」心がけで行動する。
※平成20年6月「商標登録第5136857号」取得